がんばれ日本!(2011)twitterや報道の記憶です。

(2011.03)夫の最後の贈り物
11日午後。自宅で揺れに襲われ、津波から逃れるため、避難所を目指して車を出そうとした。海に向かう形になるが、頑丈な小学校の校舎を目指した。20分もたったろうか。逃げる車で渋滞し、少しも進まない。「もうぶつかっても仕方ない」。意を決して対向車線にバックで車を出し、アクセルを思い切り踏んだ。眼前に津波が迫り、2台前の車が濁流にのまれた。助手席と後部座席には長女、里桜(りお)ちゃん(2)と次女、里愛(りあ)ちゃん(5か月)。2人を守ろうと必死で約50メートル後進し、何とか助かった。海から離れた避難所に行くことにし、その日は車中でガソリン節約のため暖房なしで夜を明かした。翌日から苦しい生活が待っていた。子供の服におしっこやよだれが付いても、乾くのを待つしかない。地震で哺乳瓶は全て割れ、避難所にあった哺乳瓶を他の家庭と共有した。ストレスで母乳が出ない。スポーツ飲料をお湯で薄めて与えても、里愛ちゃんはなかなか受け付けず、脱水症状になりかけた。お尻ふきがなくなり、里愛ちゃんのお尻はかぶれて血が出始めた。夫の悲報を受けたのは17日。気仙沼周辺で配送作業中に津波にのまれたらしいと、夫の上司から知らされた。18日、子供が眠ったのを見計らい、遺体安置所に向かった。目の前のひつぎの中で眠っているのは、間違いなく良成さんだった。涙があふれ出た。キスをしながら、「愛してるよ」とつぶやいた。遺体に何か着せてやろうと、倒壊を免れた自宅に戻り、会社から引き取った夫の荷物にふと目がいった。指輪が入っていた。以前、「たまには指輪とか欲しいけど、パパはプレゼントくれる人じゃないもんね」と、意地悪を言ったのを思い出した。この状態がいつまで続くか分からない。でも、指輪を残してくれた夫に約束した。「この子たちは私が責任を持って育てるから」

(2011.03)@nekoshima83
避難所でおじいさんが「これからどうなるんだろう」と漏らしたとき、横に居た高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元に戻します」って背中さすって言ってたらしい。大丈夫、未来あるよ。

(2011.03)@audkni310
病室の、彼のいる脇のベッドに一人でいる男の子がいた。その子は、地震で父はおらず、母とばらばらになったと言った。大丈夫?って聞いた。僕が笑ってれば母さんも笑うんだって言って、笑いかけてくれた。先生に聞いたら、少年のお母さんの名前は、死者名簿の中に。私は、教えてあげられないよ。

(2011.03)@furu_furu_0385
会社の中国人留学生のアルバイト。中国大使館から迎えがきて「強制退去」。数時間後、彼らが戻って来た。みんなで「なぜ?」。彼らは「強制退去ではなく希望者を迎えに来ただけでした」と。でも「なぜ?」。彼らは「私たちは仲間です。ここで一緒に頑張ります」。社内は歓喜、そして号泣。

(2011.03)英紙1面で
《全てのお店は閉まっています、信号もありません。でもね、ちゃんとお互い助け合って順番を譲ってあげたりしています、だから変な事故とか争いがありません。みんなスゴイです! 戦後、俺たちのじいちゃんやばぁちゃんは日本を復活させた。世界には奇跡と言われた日本の復興。必ず復興します! 日本をナメるな! 東北をナメるな!》

(2011.03)@mameo65
家屋に取り残され、42時間ぶりに救出された高齢の男性の映像。「チリ津波も経験してきたから、だいじょうぶです。また、再建しましょう」と笑顔で答えていた。私たちが、これから何をするかが大事。

(2011.03)@ownwing
旦那さんが自衛官の友人より。以前息子さんが「パパは戦争がお仕事?」と涙ながら聞いてきた事があったそうだ。誰かの心ない言葉に傷付いたんだろう。今、息子さんは毎日TV画面に向かい「パパ頑張れ、パパのお友だち頑張れ!」と叫んでるって。「僕も自衛隊になる!」って。…通勤中に号泣。

(2011.03)石川遼2011年の賞金を全額寄付
男子ゴルフの石川遼が東日本大震災の被災者支援のため、2011年の全賞金を寄付すると発表した。今季メジャー初戦、第75回マスターズ、開幕を4月7日に控え、オーガスタに滞在中の石川は、バーディーを決めるたびに更に10万円を寄付すると日本のメディアに発表した。義援金について石川は「2億円が目標」と語っている。3度目の挑戦で初の予選突破を狙うマスターズを含めた海外での出場試合での賞金も、義援金に加る予定となっている。2008年1月に16歳でプロに転向してから3年間、石川は毎年賞金1億円以上を手にしている。昨シーズン、石川は日本ツアーで1億5100万円を獲得、341バーディーを記録している。スポンサーや大手企業との広告契約を結んでいる石川は、「自分のゴルフのために使うお金は十分足りている。一番自分にとってプラスになるお金の使い方かなと思う」。

(2011.03)被災者の行動を称賛
中国のメディアは、日本人教師が学生を避難誘導し教師自身は最後に電源を切って退避したことを紹介した。「感動的」「われわれも学ぶべきだ」との反響が数多く寄せられたという。米国のテレビ局は、被災地の礼儀正しい生活ぶりを伝え、特に商店からの略奪行為がないことについて驚きの声を上げている。中国、韓国、ロシアなど、普段は日本に対し複雑な国民感情を抱く国でも、被災への同情と被災者の行動をたたえる論調はほぼ共通している。日本政府への信頼は揺らいだが、日本人への信頼は揺らいでいない。日本人のモラルへの称賛と「頑張れ」の声に応えたい。

(2011.03)@yoshimicov
ぜんぜん眠っていないであろう旦那に、「大丈夫?無理しないで。」とメールしたら、「自衛隊なめんなよ。今無理しないでいつ無理するんだ?言葉に気をつけろ。」と返事が。彼らはタフだ。肉体も、精神も。

(2011.03)@Namicoooo
父が明日、福島原発の応援に派遣されます。半年後定年を迎える父が自ら志願したと聞き、涙が出そうになりました。「今の対応次第で原発の未来が変わる。使命感を持っていく。」家では頼りなく感じる父ですが、私は今日程誇りに思ったことはありません。無事の帰宅を祈ります。

(2011.03)@bitboi
NHKの男性アナウンサーが被災状況や現況を淡々と読み上げる中、「ストレスで母乳が出なくなった母親が夜通しスーパーの開店待ちの列に並んでミルクが手に入った」と紹介後、絶句、沈黙が流れ、放送事故のようになった。すぐに立ち直ったけど泣いているのがわかった。目頭が熱くなった。

(2011.03)最後まで住民守った
宮城県警は25日、東日本巨大地震で県警の警察官10人が死亡し、4人が行方不明になっていると発表した。その多くは交番や駐在所など最前線での任務に就いており、住民に避難を呼びかけている最中などに津波に襲われた。住民たちは「最後まで私たちを守ってくれた」と悼んだ。「逃げて下さい」。気仙沼署大谷駐在所の巡査部長、千田(ちだ)浩二さん(30)は地震直後にパトカーで出動した。大声を張り上げて避難誘導する姿が、住民たちに目撃されている。千田さんは地震があった11日、妻(30)、長女(4)、長男(3)を安全な場所に避難させるとすぐに任務に戻った。消防団員の中沢誠太郎さん(40)は「無理はせず、すぐに逃げた方がいい」と声をかけ、千田さんはうなずいた。千田さんは同日夕、小川近くの土手で遺体で見つかった。顔に付いていた泥を、中沢さんはぬぐった。「あの時、無理にでも引き留めておけばよかった。彼は最後まで自分たちを守ってくれた」と話した。

(2011.03)@nekkonekonyaa
お父さん原発行っちゃったよ一度避難した原発の人も呼び出されて戻ってるんだって。母さんがあんなに泣いたの初めて聞いた。原発の人たちは自分を犠牲にみんなを守ろうと必死なんだよ みんな生きてほんとに生きて 原発の人の気持ちを無駄にしないで お父さん生きて戻ってきて

(2011.03)フクシマ50
欧米メディア、原発の作業員ら称賛、米紙ニューヨーク・タイムズ電子版が15日、「顔の見えない無名の作業員が50人残っている」とする記事を東京発で載せた。オバマ米大統領は17日の声明で「日本の作業員らの英雄的な努力」とたたえた。米ニューヨーク・タイムズ紙が、原発にとどまって危機回避の作業を続けた50人を「最後の砦(とりで)」として取りあげた。中国では「福島50勇士」「福島決死隊、現代日本の武士」と称賛している。最前線で危険な作業を担うのは、東京電力のほか、東電工業、東電環境エンジニアリングといった子会社、原子炉を製造した東芝、日立製作所などメーカーの社員たちだ。 地震発生後には800人いたが、15日朝に4号機で火災があり、750人が退避。監視などのために残った50人が、フクシマ50になった。その後、新潟県の柏崎刈羽原発などからも応援が駆けつけ、交代しながら作業。送電線を引いて電源を確保する作業員も加わり、18日朝には総勢約580人になった。 作業員は頭まで覆われた防護服姿。頭をすっぽり覆う防護マスクもつけている。胸には放射線量をはかる線量計。その日に浴びることができる放射線量をセットし、8割まで達すると警報音が鳴る。 原子炉内への注水作業は、人海戦術だ。1人の作業時間を決めて弁まで行って操作。それを交代で繰り返す。格納容器内の蒸気を外に逃す弁を開く作業では、1人が大量の放射線を浴びた。18日までの負傷者は20人を超えた。

(2011.03)@Aimi71
大事な人が,自衛隊として現地にいます。24時間で3時間の休憩。メールで「大丈夫?」と聞いた私に「そのために訓練してるからな。俺には"無力じゃない"って信じさせてくれる人がいるから,気持ちも大丈夫。」そう言ってました。どうか彼らに,もっと強い感謝の意を。

(2011.03)@yoshi0miyu
亡くなった母が言っていた言葉を思い出す「人は奪い合えば足りないが分け合うと余る」被災者で実践されていた、この国の東北関東地震被災者の方々を、日本を誇りに思います、頑張ってください。

(2011.03)@aquarius_rabbit
ホームで待ちくたびれていたら、ホームレスの人達が寒いから敷けって段ボールをくれた。いつも私達は横目で流してるのに。あたたかいです。

(2011.03)@minamoto_k
どうも、暴力装置です。明朝出動します。瓦礫と泥を相手に暴れてきます。信号で止まったときに幼稚園バスから手を振られた「頑張ってー!」と声援ももらった。泣きそうになった。隣に座ってる班長は泣いてた。「気をつけて」と言いながら缶コーヒーくれたオバチャン、幼稚園バスから手振ってくれた子供達、敬礼してくれた白バイの警察官、皆さんありがとうございます。自衛隊反対の幕持って大声出してた団体の方、その元気を分けて下さい。

(2011.03)@prayforjapan_jp
家を無くした40代の女性が言った。「私達は他人の幸せや喜びをねたむほど落ちぶれてはいない。皆さんどうぞ我慢せず楽しい時は笑い嬉しい時は喜んでください。私達も一日も早く皆さんに追いつきます」俺は涙をこらえ笑顔でエールを送った。

(2011.03)@APRIL373
日本の自衛隊って世界中で唯一、殺した人間の数より 助けた人間の数の方が多い武装集団なんだって。 これって、誇りだよね。ありがとう、自衛隊!ガンバレ自衛隊!!

(2011.03)@7474529
今日、募金箱に金髪にピアスの若い兄ちゃんが万札数枚入れていた。そしてその友人に「ゲームなんていつでも買えるからな」と言っていたのが聞こえて私含め周りの人達も募金していた。人は見た目じゃないことを実感した。そんなお昼でした。 この話感動しました。

(2011.03)@matsugen
子供がお菓子を持ってレジに並んでいたけれど、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジ横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。店員さんがその子供の背中に向けてかけた「ありがとうございます」という声が、震えてました。

(2011.04)ゴンは生きていた
東日本大震災の津波被害を受けた岩手県宮古市の田老地区で、コンビニエンスストア経営、山本義宣さん(57)一家は全員が死亡・行方不明になったが、飼い犬のゴンは奇跡的に生き残った。同じ町内で被災した山本さんの姉百合子さん(59)は「すべて流されてしまった中で、ゴンは唯一の形見です」と話し、ゴンを引き取ろうと考えている。

(2011.04)24歳米国人女性、児童避難させた後に
教え子の中学生の門出を祝おうと、メッセージを用意していた米国人女性は卒業式前日に津波にのまれた。東日本大震災は、日本を愛した外国の人たちの命も奪い去った。〈I will never forget you!(君たちを決して忘れない)〉宮城県石巻市の市立稲井中学校の廊下には、英語指導助手だったテイラー・アンダーソンさん(24)が紙に書いたメッセージが、この春の卒業生67人全員の名前とともに飾られている。米バージニア州出身。高校生の時、アニメの「となりのトトロ」を見て日本語のリズムに魅せられ、2008年に来日して市内の六つの小中学校で教えた。指導助手の志望動機には「日本と外国の若者を結びつけたい」とつづっていた。先月卒業した稲井中の生徒たちは、「アメリカにいる恋人の話もしてくれて、友達みたいな先生だった」と振り返る。同中の成澤智子教諭によると、12日の卒業式が近づくと、放課後も職員室に残り、一人で懸命に鶴を折っていたという。11日、別の小学校で地震に見舞われたアンダーソンさんは、児童を避難させた後、1人で自宅アパートに向かう途中、津波に巻き込まれた。

(2011.04)岩手から
岩手県宮古市
市役所前が勤務先で、車で逃げましたが既に渋滞が始まっていました。後で津波の映像を観た時はぞっとしました。命が助かったのはきっと「生きろ!」と言う意味だと思います。復興の為ならどんな事でもやります。
岩手県大船渡市
大好きだった大船渡の海,町,すべてがボロボロになったけど,私は生きてる。 今は頑張り時。私たちの手でもう一度造り上げていこう。

(2011.04)@furu_furu_0385
普通に生活できることは、最高なんです。被災地以外の方、下を向かないでください。いつも通りの生活をするのも支援。経済を沈めないでください。被災地は一歩ずつ進んでいます。経済の落ち込みで、また被災するのは嫌です。グイグイ引っ張ってください。絶対、追いつきます。

(2011.04)@hinokotaiyo
報道で、こんなに支援してもらって迷惑かけて私なんて流されてしまえばよかった、と泣いていたあなたへ。同じ立場なら私もそう思うと思います。でも見ず知らずの私のわがまま聞いて下さい。支援を受けるかわりに、生きてその思いを伝えていって下さい。

(2011.04)1家族年収約7万円
カンボジアの北西に位置する地雷原の村やプノンペン近郊の村から義援金が届いた。綿製品作りにかかわる約30人の工賃や染め賃1カ月分など計8万円。カンボジアの貧しい地域の1家族の年収約7万円を超える額だ。地雷原の村に住む人からは「今回の地震と津波で、日本の多くの方が亡くなり、被災されたことに、地雷被害者メンバーはショックと悲しみに包まれています。どうか私たちに、皆様の苦しみを分かち合わせてください」とのメッセージも届いた。

(2011.04)「負けないで」
「あの日」から1カ月が過ぎたが、なおも行方不明者は多い。宮城県名取市役所に「負けないで」と被災者へのメッセージを張った同市職員、西城卓哉さんの妻、由里子さん(27)もその一人。西城さんは休日のたび、各地の遺体安置所に足を運ぶ。「いつか必ず帰ってくる」と自分に言い聞かせ、平日は公務員として被災者たちの支援に全力を傾ける。一方で休日になれば、必ず各地の遺体安置所を車で訪ねる。17日も車を走らせた。周辺にがれきが残る自宅マンション。部屋には、真新しい骨つぼがある。中には7カ月の長男、直人ちゃんの遺骨が納められている。自宅に近い実家にいた由里子さんが、直人ちゃんを抱いたまま津波にのまれるところを母親が目撃していた。「由里子は抱っこひもをつけ、直人を必死で守ろうとしていたそうです」

(2011.04)松山千春
「知恵がある奴は知恵を出そう。力がある奴は力を出そう。金がある奴は金を出そう。『自分は何にも出せないよ』っていう奴は元気出せよ」

(2011.04)日本国民と共に行動を
ドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授が、日本国籍取得と永住を決意、ニューヨーク市内の自宅で新聞のインタビューに応じ「災難を前に、『日本国民と共に何かをしたい』と思った。自分が日本人と同じように感じていることを行動で示したかった」と決意へ至る思いを強調。「日本は震災後、さらに立派な国になると信じる。明るい気持ちで日本へ移る」と語った。

(2011.04)@bitboi
今、馬鹿な御用学者ではなく、生き方は不器用でも真の科学者達が、叡智で原発事故と対峙していることを知り、泣けてきた。運命を、素晴らしき全ての科学者達に託します。信じています。

(2011.04)子どもたちのため頑張って
天皇、皇后両陛下は27日、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町と仙台市を訪れ、被災者を見舞われた。伊里前小学校教諭の菊田新一さんは自宅と、気仙沼・大島の実家が津波で全壊し、両親を亡くした。同校は29日が卒業式、来月10日が始業式。震災孤児もいるといい、天皇陛下は「随分大きな痛みを負っているでしょうね」と児童らを案じると、菊田さんは「子どもたちのケアに全力を尽くしたい」と答えた。

(2011.04)prayforjapan.jp
今日現地入りする自衛官の友達からの話聞いて泣けた。自分の荷物の中に簡易食料やおむつと粉ミルク隠し入れてる自衛官がいる。見つかった人もいるけど「自分が使います」って返すのを聞いて、それを怒りながら許す上官。救助以外でできる事を模索してくれてる、厳罰も覚悟で。

(2011.04)@audkni310
いいなあ 私戻りたいなぁ 3月11日に 楽しかったもの 地震がなければ 津波がなければ 原発問題が起こらなければ私は おばさんも友達も失わなかったのに 馬鹿やってても私だって 思い出したときは 辛いんだよ

(2011.04)「トモダチ作戦」
指揮官、ロバート・トス米空軍大佐が15日、当地の報道陣と電話会見。「津波による破壊と荒廃は想像を絶した」と振り返る一方、今月3日に最後に向かった仙台空港の上空から、滑走路近くの海岸に折れた樹木で組まれた「ARIGATO(ありがとう)」の文字を見つけ、トス大佐は「被災者を含む日本の人々が懸命に国を復興させようとしている姿に深く感動した」と述べた。

(2011.04)@matusimamidori
スリランカのカランナゴダ駐日大使が先週着任。元海軍司令官で、スマトラ沖地震による津波で大被害を受けた時に救援活動。「あの時助けてくれた日本に出来る限りの協力をしたい」と予定通り赴任。日本在住のスリランカ人には「日本にとどまり日本人を助けるように」。大事にしたい国だ。

(2011.04)枝野の妻子
多数の国会議員の家族がシンガポールに滞在しているとの噂が、当地に駐在する日本人の間で広まっている。枝野幸男官房長官の妻子も滞在しているとされ、地元邦字紙の記者は「地震直後、セントーサ島のホテルで旧知の大使館関係者を見かけた。女性や子供らを引き連れていたが、どうみても一般人ではなかった。現在のところ議員の家族との確認はとれていないが、情報筋への取材によると(議員家族の)可能性は高い」と話した。枝野官房長官の家族についても国外に退避したとの情報が地震直後から流れており、一部情報筋は「民主党内の会議で枝野氏も認めた」としている。マレーシアのランカウィ島にすでに移動したとの情報もある。

(2011.04)無能な味方は敵よりも恐い
2日午前、避難生活を送る岩手県陸前高田市の市立米崎小学校へ視察に訪れた首相は、赤いランドセルを見つけ、被災者にこう話しかけた。「新しいんですか。ナントカ直人がくれたのかと思いました…」大震災で多数の児童が死亡・行方不明となった。新聞やテレビでは、泥だらけのランドセルをなでながら涙を流す遺族の姿を繰り返し報じてきた。その非情な現実を知らなかったのか。首相のくだらない冗談との落差に愕然とする。昨年末から全国の児童施設に人気漫画の主人公を名乗ってランドセルなどが贈られたエピソードはチェックしていたとみえる。自らの名が「直人」であることを意識し、ちゃっかり自己宣伝に利用するところが実に不謹慎だ。そこに被災者に寄り添う姿勢はまったく感じられない。民主党の岡田克也幹事長は「危機的状況で首相を代えるなどありえない」ともっともらしい理屈をつけるが、菅首相でなければならない理由はない。むしろ危機に直面した現状において無能な味方は敵よりもよほど恐ろしい。

(2011.04)@kazuyuki_77
菅総理が被災地を訪れ被災者から厳しい発言を受ける報道があった。被災者の立場からすれば当然の発言だろう。万全を期して被災地へ赴いているはずなのに何故あの様な配慮に欠ける行動をとるのだろう?この人物には一人一人の苦労や痛みが理解出来ないのだろう。これが今の日本の総理大臣である。

(2011.04)@SatoMasahisa
先程、昨日の避難所での菅首相の対応映像を見た方から発言あり。菅首相は被災者の目をまともに見ていない。泳いでいる。真剣に被災者のことを考えている、共感しようしているとは見えないと。佐藤も気になっていた。実際に菅首相が相手の目を見ないことは昨日だけに限らない。なぜかな?

(2011.04)@yoshimicov
事前にお話をする人が決まっているのよね。首相のボロが出ないように、被災者の方の台詞まで決まっている。どんな猿芝居やねん。

(2011.04)@nifenif
缶の視察が被災地のためではなく、パフォーマンス又はアリバイ作りに過ぎないというのは皆知ってる。。被災者さえも延命に使おうとする性根には吐き気さえ覚える。でも延命にはならないさ。国民は缶ほど愚かではない。

(2011.04)@kazuyuki_77
今日のアンカーで青山氏が「政府の解体なくして日本の復興はない」「菅総理が一日総理をやると一年の国益が失われる」と。菅総理に国民・政治家が辞職を理解させ解散総選挙にのぞむ事を力説されていた。今の国難に全政治生命をかけ国民を引っ張って行く主導者と政党に、この国の将来を託したい。

(2011.04)@yoshi0miyu
菅直人あなたの判断で官僚が持っている、放射能汚染データーの開示させないで被災地の被災民の命、健康をどう思っているのか?まるで狂人!?

(2011.04)米紙、政府対応を批判
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は11日、福島第1原発事故の深刻度が国際評価尺度で最悪の「レベル7」と変更されたことについて「最も驚いたのは、このような大量の放射性物質が放出されたと公的に認めるまでに1カ月かかったことだ」と指摘する米原子力専門家の批判的な内容を紹介、日本政府の対応の遅さを強調した。

(2011.04)@y_hirataira
阪神大震災の際の総理大臣はまだマシだと思います。自分たちの手に負えないから、関係各所に頭下げて回ったわけでしょ?でも、今回の地震は阪神大震災とは別次元なのに、首相は恫喝するだけだし、人事はとんでもないし、もうね、バカか、アホかと。

(2011.04)@jgm_jgm
■初拡散希望■ 民主党は、国民の善意の赤十字への義援金を政府預かりの仕分け対象にすると、枝野官房長官が公式に発表。みてなさい、最後に収支報告書を紛失したで使途不明になるから、赤十字まで食い物にするとは、情けない。これ、マジで日本国が世界から除外国にされちゃうよね、悲しい。

(2011.04)@midoping
今日石巻の皆さんに弁当5000食作った。昼前に出発してとっくに石巻に付いてるのに納品出来ないらしい。うちはきちんと農林水産省から委託されてやってるのに、お偉いさん方の行き違いなんだか受け付けられないと宮城県側に断られた。5000食廃棄決定。被災者の前で。閣僚やらには本当うんざり。

(2011.05)きんちゃく袋
あの震災の時に、母は、きんちゃく袋一つだけを持って近くの高台にあるお寺に逃げました。そのきんちゃく袋だけで残りの人生のスタートです。私の所で、ある程度のものを与えました。しかし、所詮もらいもの。。。有難い有難い、と言いながらも、寂しげな母の表情は、なんとも心が苦しくなります。「きれいさっぱど、なぐなった〜。せいせいした!これでわだしの物は、全部あだらすぐなる〜。かえってよがったごどなぁ〜」綺麗さっぱりと全て無くなってしまった。せいせいした。これで私の物は新しいものになるから、逆に良かった!と。母の精一杯の強がりな言葉だよね、、、、、

(2011.05)震災から2ヶ月
あの夢のような地震からもうすぐ2ヶ月親友は亡くなり、義理の妹の家は跡形もなくなったり、義弟の実家は避難指示がでたり。。。家を無くした義妹は仙台に帰省して物を到達して新しく借りた家に帰る前日パニックを起こし病院へ。義理の弟のご両親は避難指示、お見舞いを送れば実妹たちの結婚式以来にお義父さんから電話、そして会話。先祖から受け継いぎ守った土地をどうにも出来ず、家畜も手放し、その土地を離れる悔しさ。電話の向こうに悔しさや情けなさを押し殺す思い。友人は両親も孫までも海に流され、誰にも会いたくないと。。。連絡取れなかった友人は4月11日にお母さんと共に見つかり火葬へ。。。この2ヶ月で起きたことを。。。。。なんて言えばいいのですか?今夜は彼らの思いを考えると涙が止まらないのです。被災者はみんな頑張ってます! 人目を避け、こっそり涙を流しながら。自分だけがつらいのではないと思いながら。。。